榎下城と観護寺

榎下城址

ボクの自宅の最寄り駅は横浜線・十日市場ですが、そのお隣の駅= 中山駅 の近くに「 榎下城址 」があります。榎下城址へは、自宅から 新治市民の森 を抜けるルートで徒歩30分程度です。

さて、図1は榎下城址の銘板です。かなり古びて傷んでいますが、図がおもしろいので記録しておきました。銘板にあるように、 榎下城 が築城されたのは永享年間(1429年〜1441年)で関東管領・上杉 憲清 (生没年?)によるとされています。憲清は宅間上杉家の筆頭四家の流れをくむ名家の出でした。

図1:  榎下城址の説明銘文

図1: 榎下城址の説明銘文

しかし永享10年(1438年) 永享の乱 で、憲清の息子の 憲直 が足利持氏の側について戦ったが敗れ、榎下城を捨てて横浜市金沢区にある「称名寺」に退いたものの、そこでも幕府の討伐にあって、憲直はその子の 憲家 ともども自害したと伝えられています。

榎下城はそれ以降しばらく歴史の舞台から消えていたようですが、その後、小田原 北条氏 が拠点とした「 小机城 」の支城として使ったと言われています。

小机城址

小机城址 」は横浜線・小机駅近くにあります1。城域のほぼど真ん中を第三京浜で壊されてはいますが、 空堀 などが良く保存されています。この小机城と榎下城との距離は 7キロ 程度、しかも2つの城の間にはかつては 鶴見川 沿いの 平地 しかありませんでした。行き来は容易であったでしょうし、両方とも山城なので相互に見通しが効いたと思います。榎下城の親城にあたる小机城は文明10年(1478年)、 太田道灌 によって攻め落とされました。その後は廃城になっていますが、道灌との関わりもあってかなり有名です。

話しを榎下城にもどしします

それに比べると榎下城は小机城とほぼ同時代に築城されたものの、 憲直 以降は歴史的に大きな出来事の舞台にはなっておらず、また小机城より30年から40年ほど早く棄てられました。そのためでしょうか、全国的にはほとんど無名です。しかし江戸時代(慶長8年ころ;1603年)になって、久保村の長・佐藤小左衛門が榎下城の跡に「 舊城寺 」を開設しました。そのお寺は現在まで続いています。

なお有名な 上杉謙信 の先祖は横浜市栄区の「長尾城」を拠点にした長尾家だったそうで、上杉家と横浜とは浅からぬ因縁があるようです。

本題=観護寺

さて実は今日の本題はこれからですw

「榎下城」の周辺には真言宗のお寺がいくつかあります。その中の一つが「 観護寺 」です。創建年代不詳だそうですが、おそらく榎下城の築城とほぼ同時代に創建されたと思われます。

観護寺には 印融法印 (1435年〜1519年)の墓があります(図2)。

図2:  印融法印の墓

図2: 印融法印の墓

印融法印は地元(緑区 三保町 )の生まれとされ、高野山で修行をし無量光院の院主などを務めた後、晩年になり(1488年ころ)関東に戻り、真言宗の普及に務めた、 1519年8月15日に観護寺で没した、という記録があるそうなので、観護寺が榎下城と同時代の創建であることは間違いないでしょう。

観護寺と榎下城

観護寺と榎下城の距離は横浜線をはさんで直線なら500メートルほどです。観護寺の門に立って横浜線方向を見返すと、榎下城のこんもりとした森が眺望できます。当時は榎下城から見ても途中に遮るもの無く観護寺が見えたと思います。

しかし実際にこの辺を歩いていると、どうしても納得できないことがあります。それは観護寺の ロケーション 。観護寺は現在の恩田川の川っぷち数十メートルのところにあります。恩田川とその下流で合流する 鶴見川 は、知る人ぞ知る古来からの 暴れ川 。歴史上なんどもひどい水害を広範囲に引き起こしています。古い神社仏閣は、概して水害や土砂崩れによる被害を受けない場所に作ってあります。しかしここは来るたびに、まずいでしょう〜という場所です。

もしかしたら、15世紀の恩田川・鶴見川の川筋は今とは違っているかもしれません。そうだとしても、この一帯は暴れる両河川によって作られた沖積平野ですから、川筋が多少変わったとしても水害から逃れられるとは思えません。そのためでしょうか、現在の観護寺は鉄筋コンクリート造りで、よく見ると普通の木造の寺院よりも床が高くしつらえられています(図3)。

図3:  観護国寺の今

図3: 観護国寺の今

昔から、高床式のお寺だったのかも知れませんね。

それよりもなによりも、何でよりによってこんな場所に寺を作ったのか?

ある時ふと、もしかしたら?と思って、榎下城と観護寺の 方位関係 を見てみると、観護寺は榎下城から 北東 の方角になります。いわゆる 鬼門 です。

図4:  榎下城と観護寺、長延寺の位置関係

図4: 榎下城と観護寺、長延寺の位置関係

しかし北東方向にしてももう少し遠いところなら、恩田川の沖積低地を超えて丘になっている場所がいくらでもあります。方角的にはナルホドねと思いましたが、まだ謎は残ります(笑)。

長延寺について(おまけ)

榎下城の 裏鬼門 にあたる南西の方角に長延寺というお寺があります。榎下城からの距離はちょうと観護寺までの距離とほぼ同じです。

図5:  長延寺

図5: 長延寺

創建年は天正10年(1582年)です。時代的には榎下城は放棄され荒れ果てていた時代ですし、そもそも長延寺が最初に開基したのは現在の場所ではなくて、旧都筑群吉田村(現在の港北区新吉田町)でした。中山に移ってきたのはつい最近の昭和41年(1966年)なので、榎下城との関係で場所が決められたとは考えられません。

旧吉田村時代の長延寺の興味深い事実としては、安政6年(1859年)神奈川条約(横浜開港)に基づき、 オランダ領事館 が置かれたということ。なぜ港から10キロ以上も離れた寺院が領事館に選ばれたのでしょうか?謎は増えるばかりです・・・。


  1. 小机城址について:詳しくはこちらをご覧ください。 ↩︎