退職祝賀会スピーチ原稿1
ごあいさつ
- 日時: 2019年3月16日(土)13時30分〜16時
- 場所: 専修大学生田3号館7F 蒼翼の間
みなさん、今日は年度末3月のどまんなかの週末、それぞれのお立場で一番お忙しい時期に、こんなにも多数のみなさんにおいでいただき、本当にありがとうございます。感謝の言葉もありません。
定年を迎えるにあたり
さて、定年を迎えるにあたり、ボクなりに、これまでの人生をさまざま振り返り思い返しておりました。けれども、みなさんよくご存知のとおり、そもそも昔から忘れっぽかったですし、最近とみに海馬がカラカラに乾いてきて、記憶がダメになっています。なので、ちゃんとした意味での思い返しとか振り返りは難しいのですが、ここ10年ほど、「ヒトがヒトを教える」ということについて思いを巡らしていました。
ところで、本学では定年退職する先生(職員の方も)は、1枚の色紙を大学に残して行く、という伝統があります。その色紙に何を書き残すかについて、ずいぶん悩みました。さんざん悩んだ末、結局、哲学者=セネカの言葉を選びました。(スライドをご覧ください)
これはラテン語ですが、読み方は「ホムネース デゥム ドケント ディスクント」になります。その意味ですが、
- 英語訳 : “Men learn while they teach.”
- 日本語 : 「ヒトは教えるとき、学んでいる」
でしょうか。細かい解釈はさておいて、要するに
- 「学んでから、その後、その内容を学生に教える」のではなく、
- 「教えるときに学生から学んでいく」ということですね。
これがぼくの40年超の教師歴で到達した最終結論です。つまり、これこそが教育の場に固有のヒューマン・インタラクション、あるいはダイナミズムであるというと思います。
その意味で、ぼくはみなさんから随分といろいろなことを教えていただいた。大体がして、ボクは生まれながらに大雑把で不出来な人間でしたが、それがどこでどう間違えたか、教師になってしまいました。みなさんには大変にご迷惑をお掛けしたと反省しています。しかし、ぼくはみなさんに教えてもらい続けて40年、こうしてなんとか定年を迎えることができた。本日のボクがあるのは、誇張なしに、心から言葉として、みなさんのおかげだと思っています。
本日は、ぼくと一緒に学生指導に当たっていただいた元TAの方や兼任講師の方々もいらっしゃっています。みなさんにも、本当にいろいろなことをお教えいただきました。ぼくから何かをお教えしたというわけではなく、みなさんから新しい着想と心理学の知見を教えて頂きました。
ありがとうございました。
この先の人生
さて最近いろいろな方から、「4月からどうするの?」と聞かれます。本音で申し上げると、
「しばらく何もしないでぼんやりと暮らしてみたい」
気分です。この「何もしない」に心底あこがれています。が、先輩たちの話だと、1ヶ月もすると耐えられなくなるそうですw(藤岡せんせい、伊藤さん、いかがでしたか?)
何をするかについて、今から先の計画を立てるのではなくて、意識的に文字通り白紙状態で、自分自身がどう感じるのかを見てみようと思います。あらかじめ自分で自分の方向を決めて、それに縛られるのではなくて、その時点になってから、方向を決めようと思います。人間としてはかなり反社会的というか逸脱的というか贅沢というか、変だと思いますが、とりあえずそんな風に風の吹くまま、水の流れるままに過ごしてみようと思います。
で、実際に4月以降どうなるかですが、それらの状況は、本日、お帰りの時にお持ち帰り頂くおみやげ、というほどではないですが、粗品のセットを用意しています。その中には、
- 4月1日からの名刺
- お礼状のメッセージカード、裏面=ぼくの略歴
- 煎りたて・挽きたてのコーヒ粉
の3点セットが入っています。
名刺には、TwitterとFacebookのぼくのアカウントへアクセスするためのQRコード、それから、この1月からぼちぼち始めたブログのページにアクセスするQRコードが印刷されています。そのブログの中で、何かをしたくなって、何を始めたかを、自分の記録または記憶補助のために書き記す予定です。ボクはもう30年も群馬で農業のまねごとをしています。畑で草取りをしたり、野菜を育てたりするのが5月から始まります。こちらの農作業日誌も重要なコンテンツになると思います。
それで、最後にコーヒーですが、ボクが若い時から、コーヒー大好きなのはみなさんよくご存知だと思います。1日に3杯が定番になっています。
今日、お帰りに出口でお渡しするおみやげの中のコーヒ粉は、生田駅近くのコーヒー屋さんでローストしてもらって、粉にしてもらったものです。そのお店は、コーヒーの生豆から豆を焙煎して、必要なら粉にし、それでその場で淹れてくれる、とても小さな店です。席は4席しかありませんw けど、すごく近くて、ここからクルマで4,5分の距離になります。その小さな町のコーヒー豆屋さんに無理をお願いしました。焙煎機を朝から晩まで回して、一日の焙煎可能な最大の豆の量が20キロ程度というお店、本日の出席者の人数を考えると、ほとんどお店のフルキャパの豆の量となります。もし美味しかったら、ネットでも注文してください。つぶれると困るので・・・
ということで、最後はコーヒー談義になりましたね。あと、暗くなるとお酒やワインの話しも好きなのですが、まだ明るいので、とりあえず今日はこの辺で・・・
むすび
では、みなさん、今後ともますますお元気で。また、それぞれの持ち場でご活躍くださいますよう、こころよりお祈り申し上げます。
本日はまことにありがとうございました。さようなら・・・
(以上)
補足1:式次第です
式次第には和紙が使われていて、心理学科のロゴがカラーの透かしとして入っていました。裏面は、学年別にソートされたご出席者の一覧。
補足2:senecaのことばについて
本学では、大学主催の退職者慰労会において、退職者全員が書いた色紙を会場で展示することが伝統となっています。その色紙に何を書くかを考え、そして書くのにとても苦労をしました。生まれつきの悪筆プラス腱鞘炎もあり、ご覧のような(図 3)ヘタ文字となりましたw。
出典はセネカの『倫理書簡集』(Ep.7.8)です。色紙のラテン語を英訳すると、“Men learn while they teach."、日本語訳では「人は教えるとき、学んでいる」となります。英語ではラテン語のdiscoがlearn と訳されていますが、learnという英単語もその由来をみると、なかなか奥深いものがあります(英語史ブログ )。はたしてdiscoを単純にlearnとして良いかどうか悩ましいですね。一方、日本語の「学ぶ」も語源的に見るとdiscoの根源的な意味がきちんと反映されているかどうか、これも悩ましいです。どうしても「まねぶ」と「まなぶ」の関係が連想されますので・・・。
あれやこれや考えて、素人考えでは、このセネカの言葉は「人は教えるとき(にこそ)新たな発見をする」でも良いのかも?と思っています。これをさらに拡大解釈すれば、教育することが研究につながる、ということになります。教育と研究のバランスで苦悩している方には一つの救いになるかもしれません。また最近、「学習」を「学修」に書き換えるがごときのPC(politically correct)的指図が(どこが発信源かはわかりませんが)あるようです。ぼくの考えでは、PC的問題以前に、「ヒトがヒトを教える」ことに関する根源的な問題についてちゃんと考えることが必要だと思います。
Footnote
-
これは、スピーチのために用意した原稿です。実際には、現場で一部が割愛されたり文言が追加されています。 ↩︎